インフルエンザやコロナの流行する前の静かなひととき、そんなことを思います。子どもたちは寒さや暖かさを時間の経過とともに感じ、光と影の美しさのうえを飛び交い、砂地の上の紅や黄のはっぱを無意識の記憶の中にため込んでいくようです。
サッカーであそぶことが続いていて、ラインカーで石灰を引いていくことが私の日課になりつつあります。
ラインがあることで、そこを飛び越えたら無我夢中で蹴らないで、拾って戻ってきていいという目安になるからです。ボールは柔らかめでも周りで遊ぶ方に不用意に飛んでいくのは、危ないですからね。
そんなサッカーコートの脇の場所であるにもかかわらず、機関車型の木製遊具は子どもたちのお気に入りの基地であり、居場所であるものですから、ほんとに近接して別の仲間グループがそのあたりにいるのです。ある時、サッカーコートの中には、だれもいない日がありました。しばらくすると機関車周辺の3歳児のIくんが、柄の長いスコップで白い石灰をこすり落とし始めました。しゅーっと滑らしていくと、あたらしい線が現れました。その時の私の衝撃は何ともいえず、遊びの発想とは本来こういう自由さがつきものだという確認でもありました。大人(私)の目線とはまったく違う発想です。それを大人は『いたづら』と名付けたりしますが、本人たちは大真面目でもあるんです。知りたいやってみたい、そしてやってみた。。。
幸いかな、その日はサッカーは始まりませんでした。気が付いているのはI君の仲間と、私と桜の木と神さまだけだったのかもしれません。
それぞれの私的な、個人的な体験の中に普遍的なものがあるという感覚(事実でもある)が、私は好きです。その普遍的なものにちょっとふれたように感じると、人への愛おしさが増すから不思議です。秋はそんなことをぼんやり想ってしまう季節でもあるようです。
園長 松本晴子