1999年11月号

話しを選んで?聞いている子どもたち


 幼稚園では帰りの準備をする時間があります。椅子を保育者の方に向けて並べ、かばんを背負い、座って絵本を見たり、連絡事項や保育者が気がついたマナーに関する話し等を聞いたり、簡単なゲームを楽しんだりするひとときです。が、保育者の話しが空まわりする場合もあるのです。「おまえ、○○持ってる?なにそれ!」とおしゃべりが友達どうし弾み、お弁当箱を留めているゴムがピューンと飛んできたり、それが投げ返されたり。空箱のポケモンの絵を切り抜いた物を見せっこしていたりと、保育者そっちのけでにぎやかです。きっと小学校の低学年もこんな感じなのかもしれません。いすに座っていられない場合もあります。
 なぜ話しを静かに、集中して聞けなくなってきているのでしょう。私達の周りには溢れるばかりの情報が流れています。目に留るようにとテレビから流れ出るコマーシャルは趣向をこらし、アニメは派手になっていきます。家庭にいる間は指示や干渉の声を聞き、電子音がバックに漂っており、秋の屋外の落ち葉の息づかい等気にも留めずに過ごしてしまいます。子供は話したい事があると、「聞いてきいて」と保育者の所に来て、目を見て話そうとしてくれます。大人もじっくりとその話を興味を持って聞ける時があります。が形だけで聞いていることもあるのです。忙しいがために心が入らないのです。なぜ忙しいのでしょう。やらなければならないことが日常の中にいっぱいあるからでしょうか。大人が日常言っている事を録音してみたら、いつも言う事がだいたい同じという状況のような気もいたします。物事がスムーズに運ぶための指示を発しているうちに、子供は耳を傾けなくなるのでしょうか。物事と物事のつなぎめの美しさや間が肝心なのだとシュタイナーの講義で耳にしましたが、間を大切にする心は失せてしまっているのが現状です。でも…このままでは相手の心に耳を傾ける行為は粗末にされるばかりですね。子供達と会話をする喜びを共に見つけていかれますように。

パンジーさんのまなざし


 今月は最近気付いたおもしろい3才児の姿について書いてみたいと思います。とても明るく何にでも興味を示すk君が近頃しているのは砂遊び。傍を通ると「先生、一緒に遊ぼう」と手を引っ張られます。「それでは…」とスコップを持って「山を作ろう!川を作ろう!」とやり始めるのですが、いつの間にか私とk君は別々のところを掘っているのです。「k君、○○作らないの?」不思議に思いつつ見ていると、k君は一生懸命掘っているのです。作っているのは山や川ではなく『穴』なんです。k君は何かを作ろうと掘っている訳ではなく、掘る事自体を楽しんでいる様に見えます。しかも、スコップを細かく動かし掘るスピードも速いのです。その割に深くならないのは、スコップを真上に振り上げるため掘った砂のほとんどが穴に戻ってしまうから。そんな事全く気にせず一心に掘っている姿は本当に可愛いもの。「子供って最初は深く掘る事も難しいものなんだ」と思いながら、いつスコップにのっている砂を周りに置くようになるのか楽しみにしています。
 子供が穴を掘っている姿はよく見られます。その中で、掘る行為自体を楽しんでいる子は沢山います。力を使って何も考えず1つの動きを体中で味わう。その先に何があってもなくてもいいんです。<そこに山があるから登る>と同じ様に<そこに砂があるから掘る>という感じでしょうか?なかなか大人には真似できない様な気がします。
 私達はある目的のための動作になってしまうからです。そんな事を考えながら砂場にいると、自分が幼かった頃感じた何とも言えないあの楽しさ、充実感、満足感がぼんやりと浮かんできます。同じ穴掘りだと思っても年齢や経験によって違うものなんですね。
 それでは最後に秋を感じられたつぶやきを1つ。
 園庭になっているザクロの実を見て
  F君「先生、見て見て!」
  保育者「何かあった?」
  F君「うん。丸いのある。くちばしついてる」
(保育者1年生の目から見た幼稚園でのひとこまです!)

つくしっこクラブ
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