分かち合い
聖書の中に出てくる物語に、『二匹の魚と五つのパン』のお話があります。イエス様のまわりには大勢の聴衆がいて、熱心なその方々になにか食べるものを振る舞おうとしましたが、あいにく辺鄙なところで、上記のものしか集まりませんでした。しかし、イエス様がその食べ物を祝福してから分けたところ、五千人の人々が食べて満たされたというのが、概要です。この箇所は、まだ私にはよくわかりえない悩みの箇所でありました。簡単に考えれば、イエス様が魔法のようにこれらの食べ物をわんさか増やし、満腹を与えたという、ホグワーツ魔法学校でありそうな話になります。
そんな中、ある日の礼拝で望組にこの話をした後、どうやってお腹いっぱいになったのだろう?と問いかけたことがあります。「パンを小さく小さく裂いて分けてみんなが食べたんだよ。」「みんなで他に食べるものがないか探し回って、きのことかヤマブドウとかおさかなとか見つけてきて、それも分けたの。」「水を飲んで、お腹をいっぱいにしてから食べた。」なんて、すごい実践版のようなコメントもありました。5歳児の子どもたちは真剣に思い巡らしてくれたのです。実はこの一生懸命に考えることが、窮地を変える力なのではないかと、子どもたちの姿を見て思いました。そんなことは土台無理とすぐに自分のものさしで計算して、考えを止めてしまう脳みそではないのです。心を開いて、斟酌せずまっすぐにある意味受け身でいれば、与えられた物事の中に幸せの種をみつけてしまう、そんな経験のような気がするのです。夕日に染まる乾燥したイスラエルの高地での人々の心持ちは、イエス様の言葉ですでに満たされていたのだと思います。そのイエス様が自分のために祝福して祈りを捧げた食べ物を、自分も分けて頂ける。たぶんそれだけでこの時は十分だったのかもしれません。そんなことを私が思い巡らせたのも、聞き手を信頼し、真剣にこの物語の問いかけを考えようとした子どもたちの姿があったればこそなのです。
園長 松本 晴子
感じる心と感じる心の間で
クリスマス会が終わりました。そこに、願っていた子ども達の姿があったことは感謝でした。
「望さん(5歳児)になったらやる!!」と言っていたその言葉の通り、クリスマス会でちゃんと自信を持って台詞を言い、演じきったお子さんがいました。その子にとって星組と光組の2年間は根を張るために必要な時間だったことが思い返されます。嬉しさのあまりその子を抱き上げグルグルしてしまいました。「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!!」(ベートーベン)この場面には少しオーバーですが、そんな言葉が頭を過ぎりました。苦悩するベートーベンの傍に寄り添ってくれる人はいたのでしょうか。(12月は「第九」の月ですから私的妄想をお許しください。)
さて、私たち保育者が子ども達を見つめるのは当たり前ですが、子ども達同士も仲間を優しく熱く見つめていたのです。その真っ直ぐな思いに感動してしまいました。
★「どうしたの?…泣いてる…」 心のセンサーで感じていました
ある朝、靴箱の前に虹組(満3歳)のA君とB君が佇んでいます。喧嘩でしょうか。気になって声を掛けてみると、「この子泣いてる…。」とA君。「泣いてるの?」「…」首を横に振るB君。「本当だよ! 泣いてたんだから…。」と強く訴えるA君。「わかった。じゃ、2人で話してみるね。」「うん。」 A君はその場から離れていきました。「A君とっても心配していたよ。」もう一度聞いてみると「…うんち…出た…。」「そうだったんだ。やっぱり、困ってたんだね。」 後で、事の次第をA君に報告し、「また困っているお友達を発見したらお知らせしてね。」と伝えました。すると、勢いよく「了解!!」のジェスチャー(たぶんレスキュー隊のつもりです…)が飛び出しました。(A君みたいな感度の良い心のセンサーを私も持ちたいです。)
★「大丈夫かな、がんばれ!!」 熱い眼差しを送っていました
クリスマス会当日、望組の子達はウキウキ・ドキドキ。今まで感じたことのない緊張感の中にいました。イエス様の誕生を祝う劇で、一人ひとりが任されている台詞や役割、動きがあるからです。そんな中で、CちゃんはD君を見つめていました。「いつもの通りできるかなあ。」 Cちゃんの見守る中、D君はいつにも増して、立派に演じました。それを見届けたCちゃんは「うん、よく頑張った!!」と言うように力を込め大きく頷いていたそうです。自分のことのように嬉しかったのでしょう。目に浮かぶようです。後日、そのことをD君に伝えました。「君のこと応援してくれていたお友達がいたんだよ!!」「えっ…そうなの?」 そう、実はD君には応援団が付いている。(フレー!フレー!! D君!)
虹組担任 深谷幸代