生き物としての学び
子どもたちと過ごしていると、生まれて3年から6年という時のなかで、毎日頭の中を電気信号が一杯飛んで、学んでいるのだろうなと思わされます。私は生活のことを一人一人が身につけられるようにと、まめにお手伝いをする方です。この時期は、もっぱら水筒での水分補給を食事中したかな?という確認を、お食事をしたクラスで食後行います。「あら、まだ満杯に入っている!」という方の水筒は、テーブルに戻したり、本人に声をかけたりもします。ところが、毎回、名前がどこに書いてあるのだろう?と探すことを繰り返してしまうのです。もう、おつむはとんと弱いです。でも子どもは「あれ、なんでBちゃんの水筒が机の上にあるの?」なんて、仲良しでもないKちゃんが聞いてきたりするのだから、私は驚いてしまうのです。本当によく見て、覚えているのです。そして水筒を戻すことも2回くらい繰り返せば、晴子先生は水筒を飲むようにって促すな。。。とわかってしまい、普段飲まない子も、飲んでるアピールをしたりして、こういう読み取りも、頭を使ったことになります。
縄跳びに熱心になるきっかけも、ビニール縄から園おすすめの編んである縄に変えたところから、という事がよくあります。それなら最初から園で、皆同じ縄を共同購入すればいい!と思うかもしれません。確かに。。。でも園では、指定をせず希望で購入してもらいます。本人が使ってみて、園の縄だとやりやすいと実感して、わけを言っておうちの方に再購入して頂く。こちらの体験の方が、ずっと頭を刺激した体験になると思いませんか?「Cくんのなわとびって跳びやすいんだよね!」という実感。水戸幼稚園の子どもたちも、ご多分に漏れず「それ知ってる!」とつい口癖のように言いやすい方は何人もおります。知っているという思いは、自分の自尊心をアップするのかな。。。と思います。それならばなおさら、日常により多彩な実感がころがっていることが必要だと、ずっと感じてきました。例えば気温が下がってきても、なお水たまりで遊びたい気分になるということは、その子にとってどういうことなのか。光が差しているから気分が上がるのか、体感温度が高いからなのか、水という変化に満ちているものへの憧れが勝るのか、友がやっている処に加わりたいのか、水の可能性を試してみたいのか。どこまでなら楽しめて、どこから不快になるか、そんなことも自分の体に耳を傾ける。保育者も想像してみる。そして最後に汚れた感覚も感じながら、シャワーを浴びに戻ってくる。満足という顔を見せながら。大人から見れば未熟であっても、本人なりに一生懸命適応する姿は、まさしく学びなのです。『保育の場は、学ぶ、はたらく、遊ぶを一体化させた生きる場』と中村桂子さん(生命誌研究者)が書いていて、まさに共感です。
園長 松本 晴子