構図が薄れていく

すっかり桜が色づいて、黄色い絨毯になってきた幼稚園の庭です。子どもたちを見ていると、美しいもの・ふしぎなものに気を惹かれていく姿があちこちにあります。生まれてこのかた、まだまだ見るもの聞くもの珍しく、新鮮なのですね。そういう姿を見ると、つくづくうらやましくなります。たった数枚のはっぱを手にもって、あそびのチケットにしたり、お寿司のネタにしたり、おだんごのお皿にしたり、枝にさして焼き鳥にしたり。子どもたちは最近の物品に溢れた環境で生活しているし、スマホは子どもたちに余りにも身近な物であるけれど、それと同等に自然物はまわっているのかなと思います。そばを歩く保育者に「せんせー、みて!おすしたべていってください!」と招いてくれる存在は、対等でリラックスしており、居場所を確保しているのがよーくわかるのです。自分はここにいていいんだって、ということを考えなくてもよい状態です。こういう時間をたっぷり味わっておくことが、今の子どもの存在感を高めます。

ある日のシーンです。電車の中にこぎれいなワンピースにポシェットを下げた4歳くらいの女の子が、おかあさんと一緒に乗ってきました。お母さんのズボンの足につかまって、瞳をまっすぐ前に向けて、何かしゃべりだしました。まるでひとりごとを言っているかのようなのだけれど、耳を傾けてみると、「あのね、みーちゃんね(仮名)おばあちゃんのところでアイスたべるんだ。ママもたべたい?」という声が。お母さんはというとスマホを繰りながら何かを考えているかのようでした。「ママはたべないんですか。」とまた声が。「たべまーす。」お母さんは声をキャッチしていたのでしょうね。返事が返ってきました。しかし不思議だったのは二人とも見下ろしたり見上げたりするしぐさがないのです。それぞれ別のほうを向いているのです。ふと、近未来の日常は「目と目を合わせてしあわせ~」ではなくなっているのかもしれないな。。。と、考え込んでしまいました。

幼い方は「あれは?」と指さしてから養育者の顔をみ、「あれはでんしゃよ。」と一緒に電車に顔を向けながら穏やかに言葉をつないでくれる養育者がいることで、目の前の世界を知るとともに、自分の万能感を味わっていくそうです。自分には居場所があり、味方がいるんだと。そのことが安心を生み、探索の力となっていく。共同注視と言われる関係は長い間人類に培われた構図だったのです。焚火や炉端をかこみ、昔話に耳を傾けるなんていうのもその応用の絵に思います。そんな親子の構図が失われる世界が、初めてやってくるのが、今。そう思っていただけたらと思います。

園長 松本晴子

つくしっこクラブ
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