2009年11月号

幼子のように


今年の給食は、毎回嬉しい悲鳴があがります。なぜかというと、残菜が少ないからです。
多くの子供達が食事が楽しくって、おしゃべりをしながらも食べ物が少なくなっていきます。先日11月26日のメニューは、ご飯と鮭の鍋照り焼き、さつまいもの甘煮とナムル、そしてあさりの味噌汁でした。ここ2年間偏食気味で、食べられるものが限られていたT君が、私が彼のクラスに入った途端、満面の笑みでお皿を見せてくれました。なんと空っぽです。味覚が敏感で、気持ちの上でも苦労をしてきたと思います。そこを一山越えたのです。きっとメニューに、彼にとってのおいしいものがあったのでしょう。
同様な姿が遊具への挑戦でもありました。太鼓橋という鉄の遊具を登っていって、反対側を降りていくことを、ここ数日挑戦していたG君。少し登っては怖くてあとずさり…をゆっくり繰り返しています。そしてその日がやってきました。保育者のアドバイス、見本を見せてくれる子供達へ、すごい!と拍手をしたあと、「怖い、怖い!」と言い続けながらも体はそこから降りようとはせず、とうとう変な方向転換をして、棒にしがみつきながら降りていったのです。感動しました。
待つって難しいことです。いつまで待てばいいかはわからないからです。変化が訪れることを信じ切れないのです。でも幼子は今を生きているから、そんなことは考えない姿が多いように見えます。今やってみたいかどうかが、全てなのかもしれません。そういう姿を神様は祝福してくださいます。『天の国はこのような者たち(子供達)のものである。』と、聖書には書かれています。クリスマスを待つこの時期、自分自身もひたむきにやりたいことに向き合いたいと思います。今を生きるとはどういうことなのかを思い出すために。
園長  松本 晴子

きれいだな


先日バスの添乗していた時の事。年少A君が外に見えた木々を指さして「あの葉っぱはきれいだな」と言いました。そして「千波湖もきれいだよ」とも。
それから千波湖に行った話になり・・・「ボートに乗ったんだよ。パパとママが隣に乗って(足で)こいで、ボクは運転だけしたんだ」等、とても楽しそうに話していました。
きれい・汚い等の感覚は実は子供の頃に身につける事なのだそうです。意識的に教えようとしなくても、大人が自然に発した言葉が子供に染み入り、子供自身の感覚や言葉となるのです。現代はこういった自然なやりとりが減ってしまい、何かを見ても「美しい」と感じなくなってしまう危険性も高くなってしまっているとの事。
A君にとってはお家の方とのボート乗りが楽しくて嬉しくて、その時見た景色や家族の言葉が印象に残っていたのかも知れません。身近に出会ったもの、自分を取り巻くもの、いつもは目をとめないものの中に、大人を通して伝わっていくかけがえのないものがいっぱい潜んでいるのだと思います。朝のバスの一時でしたが、心がほのぼのとするお話しを聞かせてもらいました。
小林悠子

つくしっこクラブ
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