2010年6月号

矛盾の中を


当園は、キリスト教保育を掲げている幼稚園です。園の特徴として、週一回ある礼拝への参加があります。年齢ごとのクラス、望組・光組・星組&虹組に分かれて、担当の保育者の聖話を聞き、讃美歌を歌います。お祈りも皆でいたします。
私は5歳児望組を普段担当し、お話をしているのですが、ある日種を蒔き、育て、実りに導くお仕事なさる農家の方のお話をしました。今は食材の有り様からどこで作られている、誰が育てているということに、基本的に思いが行きにくいので、とても興味深く聞いていました。そのうち、話すはずの聖話からはずれて、宮崎の牛たちの事に話が及んで、「ニュースで見た!」という声が上がり始めました。子供達は純粋に、「病気になったらお医者さんに直してもらえばいいよ。」と意見を言ってくれます。「動物のお医者さんが足らないんだ。」と話すと、皆深刻な顔をして、どうしようかと考え出します。「僕たちのお医者さんを貸してあげてもいいよ!」という思いも出てきます。
人間が食べるために育ててきた牛。人間の生活様式の変化で持ち込まれてくるエマージングウイルス。人が人へのリスクを採るのは仕方がないとして(同じ種ですから)、他の種を生きづらくしていくことを、どう考えればいいのでしょう。生き物には命があることを、幼稚園では生活の中でリアルに体感していくことができます。アリを踏んでみたり、かたつむりをひからびさせることも、この年齢では興味を持っているからこそ味わうべき体験です。その時大人はどんなまなざしを向けるかが問われています。現代の日本は矛盾だらけ。その重さに、礼拝中でしたが、叫びたいような衝動にかられてしまいました。
私は、子供達が私達も生き物の一つにすぎないことを、生きていく間のどこかで考え向き合っていくことが、彼ら彼女らが大人になっていく上で、どうしても通ってほしいことのように思えてならないのです。そして、その生ををどう生きていくか…。
さあ、今日も身の回りのありふれた、でも本当は豊かな環境の中を、泳ぎだしましょう。
園長  松本 晴子

虫の気持ち


先日あるグループのお帰りの会の時間に子供達の視線が窓辺に集まりました。じーっと見て笑っている子供達もいました。「何がおかしいの?」と担任も同じ所を覗くと・・・窓に小さな虫が止まろうとして落ち、落ちてはまたとまろうと羽を動かしていたのです。「あははは」「また落ちたよ!」「おかしいよ。落ちてるもん」・・・
担任の先生は「うーん・・・」しばらく黙ってから「虫の気持ちになってごらん?」とそっと言いました。そしてまたしばらくしてから「この窓をあけてあげよう。そしたら、飛んで行けるかもしれないから」と言いました。
子供達はこの二言をどう受け取ったのでしょうか・・・
担任は「虫が可哀想じゃない」とか「そんな風に笑ったらどうかな」等とは一言も言わず、ただ静かに虫の気持ちになるようにと伝えました。お互いに影響しあって笑っていた子供達は、その言葉でストンと自分の中に落とされました。そしてちょっとの間、心の中で虫の気持ちを自分なりに想像するのです。共感しようとする瞬間を持つことはとても大切です。私がこの瞬間に思ったのは現代の難しさです。ずっと以前からですがテレビでは人を気軽に叩く場面、痛い思いをする人を大勢で笑う場面が溢れています。大人のジョークが通じるにはまだまだ早い、価値観が固まっていない子供達の多くも、ずいぶん影響を受けてしまっていることでしょう。大きな流れにただ流されないように、心の中で踏みとどまること。それはきっとこんな小さな経験の積み重ねなのでしょう。
あの瞬間、子供達は大人には想像もつかない虫の気持ちを味わったのかもしれません。
小林悠子

つくしっこクラブ
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