2011年9月号

昔語りの時間


先日、茨城キリスト教大学の原口先生をお招きして、お母さま方数十名に、『さんまいのおふだ』などの昔話を語っていただきました。はからずも私の大好きなお話で、聴いている内に私は山の中の小径を寒々と歩き、葉擦れの音を聞き、風が通り抜けていくのを感じていました。幸せな時間でした。
昔から伝わる語りや、出版されてから30年、50年、と読み継がれているような絵本には、子どもたちに真に伝えるべき真理が隠されているのものです。昔は夜なべをしている囲炉裏端で、はたまた欧米では暖炉や薪ストーブの傍らで、夕飯の片付けが終わって、皆が一日の労働の終息にほっとする短い時間に、昔語りや、父母や祖父母の幼少年時代の思い出話に耳を傾けたようです。人間味あふれるその時は、語る者の人間性や価値観と共に、生きた知恵をわくわくする体験として何気なく伝承していたのです。今の育児とは時間の流れ方が違いますね。きっと今のお母さま方はそのことをどこかで感じとって、違和感やぼんやりとした不安感をお持ちなのだと思います。今やっていることはなんだかおかしい…。自然じゃない。そんなことを感じませんか?
普通に生活するってどんなことなんだっけ?と問うと私たちは立ち止まってしまいますが、震災後の被災地の体育館で生活していたあるお母さんの一言が胸に迫ります。「私は子どもが食べたものの残りをいただくようになりました。それで十分でした。」
この言葉に一番近いところで生きているのが、幼子のように思えてなりません。
園長  松本 晴子

ひらめき


1学期に出会った子ども達同士の様々な関わり。2学期にはより深められ、友達同士、保育者との交わりにおいても、それぞれの呼吸が見られるようになってきました。安心や信頼がベースとなった交わりの上には、それぞれの主張が芽を出してきて、それは見ていると本当に面白く、いい経験しているなぁと見守ることも増えています。
先日は年長児中心にサッカーをしました。サッカーの基本は足でボールを蹴る事。ゴールに入れる事。複雑になれば細かいルールやきちんとしたコートも必要ですが、この日は好きなチームに入り、一生懸命蹴る事が目標でした。誰も平等なチーム分けをしないので、人数は偏り、私のチームは一人だけ。いつの間にか、私対子どもチームの戦いになりました。私とボールの取り合いをする子もいれば、ゴールで守ろうとする子。近くでボールが転がってくるのを待つ子。自ずと現れた役割の中でゲームは進みます。段々、私のゴールを阻止しようと何人もがゴール前で通せんぼ。いくら強く蹴っても跳ね返され、それでも隙間を見つけようとする私。隙間を埋めようと友達を呼び込む子ども達。これがこの日、子ども達が見つけた作戦でした。
作戦やルールは本来こうして経験した子ども達のちょっとした閃きと仲間との呼吸によってできていくものかもしれません。このやりとりの味わいは何とも心地よいものです。係わり合いの中から遊びを作っていく、本当の楽しさや喜びに触れれば、またそれを繰り返したくなります。
さわやかな秋風の中、次の日へとサッカーは続いていきました。(私の足はいつまでもつかな??)
小林悠子